みなさんこんばんは!
今日は、歯の神様の話しです。
松原神社(鹿児島県)
JR西鹿児島駅前から市電・天文館電停下車、天文館アーケードを歩くこと約5分で松原神社(歯の神んさあ)に辿り着きます。
松原神社の御祭神は島津家第15代・島津貴久公(大中公)です。
松原神社境内にある「歯の神様」は島津貴久公の家臣・平田純貞を祭神としています。
鹿児島県歯科医師会では毎年”抜去歯”の供養祭とともに「歯の神様」の祭礼を行っています。
歯の神様に関連して鹿児島県歯科医師会会史(80周年史)には次のように記載されています。
島津家15代の明主大中公(諱は貴久)の家臣・平田純貞、君主の命を奉じて虚無僧姿となり、九州一円国情偵察の行脚をやった。その当時は織田、豊臣の時代で島津藩の如きも未だ後年の如く統一されたものではなかったが、帰途福山において大中公薨去の報に接した。
純貞落胆措く能わず人生最大の苦痛を味わいて殉死せんとした。即ち人生において歯痛に勝る苦痛はあるまいとの観念から自ら全歯を抜き放ち、且つ空舟に乗ってこれを海中に投ぜしめた。
空舟とは本来、木を剔り抜きて船の如くし、殉死者はこれに乗りて蓋を釘付けにし且つ海中に投ぜしめる方法であって、その当時の殉死の一形式として用いたといわれている。これが他の殉死と異なるところは、万一運が良ければ陸地に漂着して救助されることもあったという。
純貞の舟は2、3の漁家のみだったという海岸(今の南林寺町)に漂着した。即ち検死の結果、平田純貞ということがわかり、これを海岸より程遠からぬ元の南林寺墓地(ちょうど現時の南洲寺より55メートル位西北にあたる)に埋葬された。その時死体を東向に埋葬したところ、不思議に天地晦冥となり、風雨俄に起こったという。蓋し大中公を祀った松原神社がその西にあり、大夫の霊が東向を欲しないためだろうというので早速これを西向に改めたところ、忽ち天地が元のように晴朗になったという。
松原神社
然るに何時の頃からか世人はこれを「歯の神様」と称え、歯痛に霊験あらたなものとして来拝者が後を絶たなかったという。爾来春風秋雨三百余年南林寺墓地も転地改葬され、今では人家稠密の巷と化している。
大正の年、平田氏の墓も当然由緒墓地に改葬さるべきものであったが、二宮権次郎という人の斡旋に依り、「歯の神様」として現在の如く松原神社境内拝殿の南側に改葬されたものである。尚遺骨も埋葬してあるという(以上は平田純貞の後裔平田正氏および松原神社加世田宮司の談に依るものである。)。
昔は藩の大奥から下は一般民家に至るまですこぶる信仰厚かったとみえて、寄進石塔には次の文字が窺われる。
「寄進。御本丸大奥、文政3年庚辰6月吉日」。尚歯の神様の墓石には正面に「廉○浄貞禅伯」「30壬甲」「○○○3日」とあり、向かって左面に「平田治部少純貞。入道○○」とある。
○の部分は摩滅して判明しないところである。御本丸大奥よりの寄進になる石柱の日付を見ると文政3年とある。この時代はすでに竹崎潤計氏が口科医として島津藩公に抱えられているが、潤計氏の施術も大奥の女人連中には及ばなかったのであろう。